イワクラセミナー5回目(最終回)は、盃状穴、線刻、神代文字、古史古伝さらに日本ピラミッドといった、これまで触れてこなかったイワクラの周辺の事柄について説明します。
盃状穴/線刻/神代文字/古史古伝/葦嶽山ピラミッド/皆神山ピラミッド/尖山ピラミッド/弥山ピラミッド
岩石に何かが彫られていることを線刻といいます。
2025年1月11日のイワクラセミナー5では、この線刻についてもお話しします。
線刻を議論する場合、いつ彫られたかが重要なのですが、残念ながら科学的にはこの年代を特定する方法はありません。しかし、岩石の風化速度を持ち込めば、およその検討はつけられるのではないかというのが私の考えです。
風化速度は、岩質と周りの環境の影響を受けるため一概には言えませんが、花崗岩と想定した場合、過去の文献値を見ると風化速度は、およそ10mm/1000年と言えます。
ここで、3000年前の縄文晩期(弥生時代が始まる直前)に彫られた線刻を仮定した場合、その岩石は30mmの深さが風化で無くなっていますので、線刻は30mmの深さで彫られていないと残っていません。次に線刻の幅と深さの関係ですが、石器で30mmの深さを彫る場合、その線刻の幅も30mm程度は必要と考えられます。靭性の高い鉄器があれば、細くて深い線刻も彫れると思いますが、鉄が輸入されるのは弥生時代で日本製の鉄が造られるのは5~6世紀です。したがって30mmの幅に満たない線刻は、縄文時代に彫られたものではなく、もっと新しい時代に彫られたという結論が導けます。
また、逆に、30mmの深さで彫るのは大変なので、縄文時代に線刻が彫られていたとしても、ほとんどは残っていないという事も言えます。
日本人は、3世紀に渡来した漢字を使用するまで、文字を使用していなかったというのが定説となっています。
儒教や仏教を重んじた江戸時代に、日本の良さを見直そうとする国学の大家である平田篤胤は、神代文字を発見し、日本人は漢字渡来以前に文字を使用していたと主張しました。
しかし、現在では、神代文字は平田篤胤一派が創作した偽物で、神代文字で書かれた古史古伝も全て偽物であると捉えられています。
文字は耐久性のある面に書かれた視覚的で慣習化された記号を利用する相互コミュニケーションのシステムです。この文字によって自分の意思や情報を過去に残せるようになり、文化は飛躍的に高くなります。文化的な生活を営んでいた縄文人が文字を発明しなかったとは思えません。人類が言葉を会得したのは12~10万年前で、世界的に文字が発明されるのは9000~5000年前です。その後、日本列島に住む人々が1700年前まで文字を持っていなかったという事は考えにくいのです。
では、その証拠を示せという事になりますが、数千年前となると、日本の風土では、文字を岩石に刻んでも、そのほとんどは風化して消えてしまいます。紙や布に文字を書いても、写本を繰り返さないと無くなってしまいます。つまり、原本は残っていないのが当たり前なのです。
そのような状況の中、数少ない例ではありますが、過去の遺物の中から記号・文字が発見されています。また、漢字が渡来する以前の弥生時代の下原遺跡から硯も発見されています。さらに、吾郷清彦氏の調査によると、官幣社及び国幣社の約30%で守符、御符、神璽に神代文字が用いられています。これらに対して、何の根拠も挙げずに全て江戸時代の偽作だとしてしまうのは、真摯な研究者ではありません。それとも、神代文字を認めたら日本に選民主義が再び蔓延し軍国主義になってしまう。というような馬鹿げた懸念でもあるのでしょうか? この話題になるとどうも冷静な議論ができないようです。
神代文字否定論者の主張をまとめると以下のようになります。
1.平田篤胤が真正とするアヒル文字は、ハングルと類似しているので、ハングルを真似て造った神代文字は後世の創作である。
2.漢字より以前に神代文字があったなら、漢字を輸入する必要がない。よって神代文字は後世の創作である。
3.神代文字の多くが表音文字であり、音節文字のかな文字より進歩した文字である。よって神代文字は後世の創作である。
4.古墳時代や縄文・弥生時代の出土物の中から神代文字が発見されていないので、神代文字は後世の創作である。
5.神代文字は47~50文字で構成されているが、奈良時代は87音あったので、神代文字は後世の創作である。
セミナーでは、これらの主張に対して、反論したいと思います。
写真は、岡山県大内神社の兎の毛通しの神代文字です。アヒル文字の浮彫とアヒルクサ文字が彫られています。
「古史古伝」という言葉を作った吾郷清彦氏によると、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『古語拾遺』などのアカデミズムに認められている歴史書は「古典」。『竹内文書』、『九鬼文書』、『宮下文書』、『物部文書』などの神代文字に関わっている歴史書は「古史」。『ホツマツタヱ』、『ミカサフミ』、『ウエツフミ』などの神代文字で書かれた歴史書は「古伝」と分類されます。アカデミズムは神代文字を認めていませんから、「古史」も「古伝」も全て偽書扱いを受けています。
『古事記』と『日本書紀』は、外国の文字である漢字を使用して8世紀に書かれました。
この『古事記』の編纂にあたって「故ここに帝紀を撰録し、舊辭を討覈して、僞を削り實を定め、後葉に流むと欲ふ」と書かれていますので、記紀の前に『帝皇日継』と『先代旧辞』(帝紀・旧辞)が存在したことは皆が認めるところです。しかし、「漢字渡来以前には、日本に文字は無かった」というのがアカデミズムの鉄則ですから、帝紀・旧辞は文書ではなく口伝であったと説明されています。
果たして、古事記のような詳細な物語が口伝で伝えることができたのでしょうか。これらは神代文字を否定したために生じた矛盾ではないのでしょうか?
酸性紙の寿命は100年、中性紙は400年、和紙は1000年ほどです。平安時代以前に書かれた文書は残っていません。
文書が現在まで残るためには、何度かの写本が必要であり、写本時に余計な情報が書き足されることはよくあることですから、その部分だけ取りあげて全てを偽書と決めつけるのは、いかがなものかと思います。なお、ここでいう「偽書」は、古くから伝わる文書だと偽って創作された文書を意味し、文書の内容の正誤を意味するものではありません。
日本ピラミッド説は、エジプトや南米にあるピラミッド状の人工施設が日本にも存在し、自然の山を加工して造られている日本の方が古く、日本からエジプトや南米に伝播したため、適切な山の無い場所では岩石を積んで造られたとする説です。
1934年に竹内文書に影響を受けた酒井勝軍が葦嶽山の調査に訪れ、「諸君! あの山がまさにピラミッドである!!」と叫んだ時に生まれた説ですが、昭和初期に一大ブームとなり、日本中でピラミッド探しが行われました。
添付の図は、私が2023年8月23日にフジテレビの「世界の何だコレ!?ミステリー」に出演して葦嶽山ピラミッドを説明したときに、前もってディレクターに送ったものです。葦嶽山ピラミッドに関連する事柄の相関図になっていて、この図の一部をディレクターが切り取ってテレビ番組を構成しました。
「イワクラセミナー5」では、葦嶽山ピラミッド(広島県)の他に、弥山(広島県)、野貝原山(広島県)、皆神山(長野県)、位山(岐阜県)、尖山(富山県)、黒又山(秋田県)、大石神(青森県)など、時間の許す限り説明する予定です。